嵐
( 3 )
第一部 メリーの憂鬱
サンジを見ていると、ゾロはイラッときてしまう。
航海とともに積み重なったイライラはハリケーン並のエネルギーを蓄えており、強い暴風が船や仲間、特にコックに襲い掛かりそうになるのを抑えるのに今やひと苦労だった。ゾロは鍛錬に精を出すことで、コックを避けることで、なんとか嵐を鎮めようとしたが、あまり効果はなかった。
どうしてこんなにイラつくのだろう、と時おり不思議に思ったが、ゾロはそれについてまともに考えたことがない。どうしてもこうしてもコックはムカつくのだし、そんなことを考えるよりも具体的な対策を講じる方が意味がある。なにより合理的で手っ取り早い。男の論理はそう判断した。
だがその方法は、行き止まりに当たったようだ。
まいった。もう打つ手が浮かばねえ・・・。
ゾロは船の上で迷子になった気持ちがして、なんとなく周囲を見回した。年老いた僧のことを思い出したのは、あたりを包み始めた夕暮れのせいだろうか。
2日ほど前。メリー号はとある島に買い出しに立ち寄った。
港に着くと、ゾロはルフィより早く船を飛び出した。サンジのお供から逃れる作戦だった。
作戦は上手くいったが、町が黄昏に染まる頃になってもなぜか船が見つからない。
「迷っておいでのようじゃな、お若いの」
言われて振り向くと、寺院らしき建物の前に小柄な老人が立っていた。頭をまるめ、黄色の袈裟を着て、手に杖のようなものを持っている。見るからに僧侶のようだ。目が合うと老人はにっこり笑った。
「・・迷ってねえ」無視することも出来ず、ゾロはそう答えた。
「ホッホッ。頑固も良い。が時には尋ねてみるも良かろう?」笑う老人の瞳はどこか鋭かった。
「・・・・港はどっちだ?」
「ホッホッ。自分の道を人に問うとは愚かよのう」
「テメエが聞けって言ったんだろうが!」
「ホッホッホッ!・・よいか、剣士殿」
怒鳴り声に気を悪くした素振りもなく、老人は近寄ってくると「答えは必ずここにある」と言って杖の先でゾロの胸を“トンッ”とついた。
「見えていても、見えていない。わかっていても、わかっていない。人とはそうゆう生き物じゃ。いやいや諦めることはないぞ。知りたければ己の魂に尋ねてみるのじゃ。魂はすべてを知っておる」
「・・答えの出ねえことだってあるだろ」
現に自分は今も船に辿り着けないではないか・・。ゾロはそう思った。
「ホッホッ確かに。そういう時には聞き方を変えてみるのがいい。それでも答えが出なければ・・それは自分自身が“本当は知りたくない”ということ・・。必要なのは勇気じゃ。真実を受け止めきれない弱さのせいで、人は己にとって本当に大切なものを見極めることから逃げてしまう。剣士殿は逃げるのはお嫌いではないかな?」
ゾロは身動きも出来ずにいた。
あたりの物音がなくなり、不思議な静けさのなか、老人の声だけが響いている。それは、アラバスタでMr.1と闘った時に訪れた静寂によく似ていた・・・。
「そろそろ戻るとするかの。そなたももう戻られよ」
老人がくるりと背を向けた途端、世界が息を吹き返したようにまたざわめき始めた。その後ろ姿をゾロは茫然と見送った。すると老人はすっと左手を上げてある方角を指差した。
「道しるべとはつねに明るい光じゃ。見失うなよお若いの。ホッホッホッ・・・」
老人は一度も振り向かず、笑いながら寺院の中へと消えて行った。
ゾロはその後、老人が指し示した方向へ歩き出した。
しばらくすると港の明かりが見えた。
あの老人の言葉は、ゾロの胸の奥に刻まれた。そして深いところから、今も小さく揺さぶり続けている。
あれは、自分の心の迷いをも見通した言葉ではなかったか。ゾロにはそんな風に思えてならない。
己の魂に・・・尋ねる、か。
ゾロは修行僧のように足を胡坐に組んで背筋を伸ばし、大きく息を吸い込んで目を閉じた。それから大きく息を吐き、『てめえどうしてコックが嫌いなんだよ?』と自分に問いかけてみた。だが、何かが心に引っ掛かる。“嫌い”という言葉に違和感を感じるのだ。
嫌いだからって悩むことはねえよな。そんな野郎は鼻から相手にしねえか、ぶちのめして目の前から消えてもらえばいいだけのこった。・・だいたい、嫌いな奴にちょっかい出したり、そいつのことばっか考えたりしねえだろ?しねえよな。つーことは・・・“嫌いじゃねえ”ってことか?けどイラっとくるしな・・。
『どうしてコックを見てるとイライラすんだ?』ゾロは質問を変えてみた。この方がしっくりくる感じがする。ゾロが答えを求めて意識を集中し始めると、心のスクリーンにサンジの姿が浮かび上がった。
“走馬灯のように”とでも言えばいいのだろうか。入れ替わり立ち替わり、さまざまなサンジが現れては消えていく。笑いながら料理を作るサンジ。デレデレと鼻の下を伸ばすサンジ。クールに蹴りを出すサンジ・・・。スクリーンの中のサンジは、本物同様豊かな表情を見せていた。そしてその一人一人が、それぞれ異なった感情をゾロに抱かせるのだ。笑うサンジは安心感を、デレデレのサンジは腹立たしさを、クールなサンジは頼もしさを・・・。自分の感情が呆気なく変化することに驚きつつ、ゾロは笑顔のサンジをずっと眺めていたい気持ちに駆られた。けれども自分を悩ませているのはこのサンジではない。ゾロはさらに意識を集中した。
俺をイライラさせるのは、どのコックだ?・・やっぱこいつか?
ゾロは女の前で鼻の下を伸ばすサンジを捕まえて眺めた。見ているとやはりムカムカと嫌な気持ちになる。そんな顔を見せるなと怒鳴りたくなる。・・目障りな奴だ。こいつさえいなければ・・・。
「ゾロ!起きてくれゾロ!」
呼ばれてゾロは我に返った。目を開けるとチョッパーが人の姿で立っている。
「寝てねえって。どした?」
「ナミが呼んでる」
「・・なんかあったのか?」
チョッパーの不安そうな顔が気になった。
「空気が変わったって。もうすぐここに嵐が来るんだって」
「やばそうなのか?」
「ナミすっごい慌ててるんだ・・。やばい感じがする」
「・・分かった」ゾロは刀を持って立ち上がった。
ナミの言うとおり、船はその晩ハリケーン級の嵐に襲われた。
暴風雨は深夜にピークを迎え、船は何度も沈没の危機に瀕した。それを耐えられたのは、航海士であるナミの手腕と麦わらクルーの一致団結した働きがあったからだ。
だがその夜の損害はひどいものだった。
メリー号は後方のマストを折られ、ミカンの木をなぎ倒され、コックを奪われた。
暗い海に消えたサンジは、いつになっても戻ってこなかった。