もう一度

( 3 )

ところが予想に反して、そいつは毎日のようにオレの目の前に現れた。

午前中の決まった時刻になると左方向からやって来て、自販機でジュースを買い、右方向へ進み、交差点を渡り、角でジュースを飲み、ビルの建設現場を眺め、飲み終えると後戻りして左方向へ去って行く。それが、あいつの奇妙な日課だった。

どうやら建設中のビルを見るのが目的らしい。銀色の防音シートに覆われたビルを眺める姿からは、単なる好奇心とは違う、何とも例えようのない熱心さが感じられるのだが、その情熱がどこから湧いてくるものやら、オレにはさっぱり分からなかった。

建設現場に関心を示す物好きが少なからずいることを、オレはこのバイトで知った。わざわざ立ち止まって施工ボードを読んだり、搬入路の奥を覗いたりするのは珍しくない。知らないおばさんに「ここ何が建つの?」と聞かれたこともある。

にしても、あいつは明らかに別格だ。毎日だぞ?物好きにもほどがあるだろ。マニアってやつか?あんなありふれたテナントビルの建設すら見たくてしかたないもんなのか、現場オタクには?

呆れて見ていたオレだったが、そのうちそれがありきたりな日常のひとコマに思えてくるから慣れというのは恐ろしい。あいつもすっかり作業員たちと馴染みになったらしく、話したり何かを差し入れたりするのを、オレはゲートの前から盗み見た。

オレの視力はかなりいい。小供の頃からだから、生れつきってやつなんだろう。剣道で人並み以上の成績を修められたのは、常人離れしたこの眼のおかげに違いない。オレにはあいつの表情までが見て取れた。

あいつはいつも何か想いを巡らせているようで、ひとりでいてもニコニコ笑ったり、へらっとだらしなく口元を弛めたり、忙しく表情が変化する。それが面白くて眺めるうちにオレは、あいつと友達になって話せたら楽しいそうだな、なんてことを考えるようになった。けど、それは無理な話だ。

あの夜の出会いは、あいつにとっておそらく"最悪"な出来事だっただろう。あいつの目に映ったオレは、サラリーマンを殴り自分にも食ってかかった血の気の多い暴力男だ。話しかけたりしたら逃げられ、もうここには現われないのがオチだ。・・・近づかないほうがいい。

そう思う一方で、オレはあいつがうちの現場も見物しに来るかもしれないと淡い期待を抱いた。だが、あいつは道路を渡ってこちら側に来ることはなかった。もちろんオレの存在なんて、気づいてさえいない。


今日のあいつは白いシャツに黒のパンツという格好で現われ、自販機の前に立った。あいつが選んだ飲み物と同じものを休憩時間に飲むのが、今ではオレの日課となっている。

「なに見てんスか?」

ウチヤマがすぐ側まで近寄って来てオレの視線の先を確かめる。

「あー。兄貴もやっぱ気になります?・・毎日ご苦労さまです、って感じっスよねーあのお兄ちゃん」

「ああ・・ありゃあオタクの鏡だな」

とオレが受け応えると、ウチヤマは間の抜けた顔で「オタクノカガミ?」とオウム返した。

「現場オタクだろ、あいつ」

そう言うとウチヤマはますます間の抜けた顔になり、突然笑い出した。

「現場オタクってなんスか?それウケますって、兄貴」

「兄貴は止めろ。いや、どう見てもオタクだろ。じゃなきゃなんなんだよあいつは?」

「あの兄ちゃん、コックっスよ」

「コック?・・・コックって料理人のことか?なんであいつがコックだなんて思うんだよ?」

「思ったんじゃないっス。聞いたっス」

「おまえあいつと話したのか!?」

つい大声が出た。途端にウチヤマが眉を下げる。その情けない顔がなぜだか憎たらく見えた。

「話してないっスよ〜。あの現場に前一緒に働いてたダチがいて、そいつから聞いたっス。あの兄ちゃんはコックだって。でー、2階のテナントに入る自分の店が気になって見に来てるって。いるんスよねー、ちょいちょい来ては口出ししてくるめんどくさい施主さんって。あー、けど、あの兄ちゃんはそうゆうんじゃないらしいっスけど」

「あんなに若いのに・・自分の店か」

「兄ちゃんのじいちゃんがオーナーだって聞いたっスよ。じいちゃんと孫の店なんて、なんか微笑ましいっスよね」

「・・・おまえすごいな」

オレはウチヤマの情報収集能力にめちゃくちゃ感心した。ちょっとした立ち話で恐るべき量の情報をやり取りする主婦並みにすごい。あまり会話が得意ではないオレには絶対真似のできない芸当だ。

ウチヤマは褒められると真っ赤になって不気味に照れまくったが、得意げに聞いたことをすべて教えてくれた。

あいつの歳が同じ19で中学を卒業してからずっと実家のフランス料理店を手伝っていることや、店主であるあいつの祖父が一流のコックであること、新しく出来るお店は本格フレンチでありながら親しみやすく誰でもおいしい料理を楽しめること、そしてあいつが時々現場に持ってくる手製の菓子が“マジ、ヤバイ”ことをオレは知った。

そして、どうしてあんなに熱心なのか、あんな表情を浮かべるのか、ようやく分かった気がした。

きっと、店が出来るのが楽しみでしょうがないんだろう。新しい店のこと想像して、あれしよう、これしよう、なんてわくわくして、嬉しくなって、いろんな顔になってしまうんだろう。

いいよな、待ち遠しい未来があるってのは。

それに比べて・・・

オレは後ろを振り返った。

中では重機のアームが休むことなく動き回り、造り酒屋の店と倉と母屋の瓦屋根は崩され、水をかけられ、火災の後のようにほこり煙をくすぶらせていた。過去の繁栄を偲ばせる金箔の剥げたでかい看板が、瓦礫にまみれうつむいている。

向こうは創造、こっちは破壊だ。

あいつとオレの立つ場所は、道路1本隔てただけなのにこんなにも違う。

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