もう一度

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プロローグ

ウウッ。

動物の鳴き声に似た男の声が、薄暗い細い路地に吸い込まれるように消えていった。

平日の深夜だ。繁華街の表通りと違って小路にはひと気がない。小さな悲鳴など誰に届くはずもなかった。

「しつこいんだよ、オッサン!」

地面に膝をついた中年男に、オレは怒鳴った。

出会ったのはほんの1時間ほど前。ビアバーのカウンターでひとり静かに飲んでいたら話しかけてきたのがこいつだった。かなり酒が入っていたんだろう、絡んで、説教したあげく勝手に怒り出して・・。ウザくなって店を出たら、こんなとこまで追っかけて来やがって・・。思わず手が出た。みぞおちに一発。

「どうした?立てよ。性根を叩き直してやるとか言ってたじゃねーか。やれよ」

「・・・すみ・・ませんでした」

オッサンはでかい図体に似合わないか細い声でそう答えながら立ち上がり、軽く頭を下げてその場を離れようとした。

「ふざけんな!」

オレはオッサンの首にぶら下がったネクタイをつかんで、力づくで引き寄せた。オッサンはそれに抵抗してもがき、結局は自分で転んでまた地面に這いつくばった。

「すみません・・もう勘弁してください。すみませんでした」

逃げられないと悟ったのか、今度は全力で謝り始めた。その無様で卑屈な姿をオレはうんざりとした気持ちで見下ろした。

弱え。弱すぎる。

お前オレになんつったよ。

自分は大企業の部長クラスだ、高卒でそこまで出世するのは異例のことなんだ、って自慢したろ?学生の身分で、親の金で、飲んだくれてるオレになんか、想像もつかねえ苦労があったんだよな?上司の圧力にもライバルの嫌がらせにも屈しなかったと、豪語してたよな?

強いんだろ。賢いんだろ。立派なんだろ。オレなんかよりずっと。なのに、どうしてペコペコ頭下げてんだよ。

「・・そうだ、待ってくれ」

突然オッサンは頭を上げ、震える手でごそごそとポケットから何かを取り出した。二つ折りの財布だった。中から札を1枚取り出す。

「受け取ってくれ。ほんとうにすまなかった。これで終わりにしてくれないか。な?」

商談成立だ、とばかりに目を輝かせ、口元に薄ら笑いさえ浮かべ、札をオレの鼻先に突きつけてくる。

なるほどな。そいつがてめえの最強の武器ってわけか。くだらねえ。何が“な?”だ。

たまらなくムカついた。

こいつの存在そのものが許せない。そう思った。

ゆっくりと首を回した。ポキポキと小気味よい音がする。気を入れて何かを始める時、オレがいつもする癖だ。

差し出された手を払いのけると、札がひらひら舞った。

オッサンの顔から薄ら笑いが消え、目はオレと札をせわしなく行き来する。

何かもごもご言いながら金を拾おうとするのを制し、胸元をぐっと掴んだ。

その瞬間だった。路地の奥でゆらりと、ひとつの影が動いたのは。

「どうかしたんですか?」

そう言って奥から現われたのは自分と同年代の若い男だった。

「何でもねえよ。部外者はすっこんでろ」

オッサンの体を力づくで立たせながら、近づいてくる男に睨みをきかせた。オレが凄んでみせれば、たいていの奴は黙り込んで近寄ろうとはしない。このオッサンだってベロベロに酔っぱらってなけりゃそうしてただろうに。

けどそいつは違った。オレの尖った視線にも緊迫した空気にもひるまず足を進めてくる。

「すっこんでろって言われてもなー。オレそっちの通りに用があるんで」と言って表通りを指す。

「・・・さっさと行け」

「どーも。では失礼しまーす」

「・・・」

すっとぼけているというか、ちっとも緊張感の感じられない野郎だ。バカなのか、それとも、度胸があるのか・・?

オレはこちらに歩いてくる男を横目で観察した。

背は高い、が線は細い。格闘や武道をやっている体つきではない。それなのになぜだろう。オレに警戒心を起こさせる何かが、奴には感じられた。

男は近くまで来ると、足を止めオッサンの顔をしげしげと見た。

オッサンも食い入るように男を見つめている、と思ったら。

「ああああなた、待ってください!助けてください!」と若い男に向かって懇願を始めた。

「黙ってろよオッサン」

「お礼はします!だから助けてください!せめて、警察に連絡を!」

「黙れっつてんだろ!!」

口をふさごうと振り下ろしたオレの拳は相手の頬にヒットし、耐えきれずオッサンはまた地面に転がった。

顔面に喰らうダメージは肉体的にも精神的にも強烈だ。気力が満ちていれば闘志に火がつくが、気持ちが萎えていればそれでとどめを刺される。オッサンはううっと唸って、泣き出した。

「ハイ、そこまで~!」

一部始終を黙って見ていた男が、まるきりレフェリーの調子でオレたちの間に割って入った。

「邪魔すんなよ!」

「邪魔するも何も、勝負はついただろ。オヤジの負け。お兄さんの勝ちだ、おめでとう」

「いや勝負じゃねえし!まだ終わってねえし!」

「わっかんねえなー」

「ああ!?」

「いったい何がしたいんだよ、お兄さんは?」

男がのぞき込むように小首をかしげ鼻先を近づけてきた時、オレははっとした。

間近で見るそいつの顔は、くっきりと白く暗闇に浮かび上がっている。大きく開かれた丸い瞳はやけに透明で、ビー玉みたいに光って見えた。

オレが何も言い返せないでいると、男はすっと視線を引き口を開いた。

「オヤジ病院送りにして、警察に捕まりたいのか?まさかこのオヤジを、殺したいとか思ってる?そもそもさ、何したのオヤジ?あんたの親の仇かなんか?」

”病院送り”、”殺し”という言葉にオッサンがびくびくっと肩を動かし、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔でオレを見上げた。

「終わりにしとこうぜ。オレは警察には通報しねえ。オヤジも、しないよな?」

と念を押されると、オッサンは無言のまま縦にぶんぶん首を振った。

「よし。じゃあもう行けよ」

「だからなんであんたが仕切ってんだよ!」

「まあまあ、いいじゃん。お兄さん、なんか疲れてちゃってるみたいだし」

「オレはあんたに疲れてるんだよ!」

「何それ、うけるー」

「うけるなボケええ!」

オレはオッサンから手を離し、代わりに若い男に掴みかかった。その時だ、オッサンが機敏に立ち上がり、体の向きを変えた。次の瞬間、どこにそんな力が残っていたのか、意外なスピードで路地の奥めがけて走り出し、すぐ角を右に折れ、・・・消えた。

・・・うそだろ。

オレは追いかけるでもなく、悔し紛れに何かするわけでもなく、その場で呆然と固まった。

「オヤジ逃げるの速かったなー」

「・・・」

「まあ、今からじゃ追いつけないだろうな」

「・・おい!てめえのせいで逃げられたじゃねえか!このおとしまえはどうつける気だ!?」

オレの睨みはやはりこいつには通用しなかった。

「ごめんなー」

にっこり笑って口先で謝って、

「ヤバイ!オレもう行かないとジジイにどやされる。じゃあ元気でな」

久しぶりに再会した友人と別れるかのようなセリフを吐いて表通りに飛び出し、

「急がないと終電なくなるぞー!」

振り返ってそう言い残すと踵を返し去って行った。

焼き鳥屋から出て来た客の賑やかな声で我に返ったが、もう遅い。オレは拳を固く握り明るい通りを見ながら心の中で吠えた。

ジジイ、って誰だよ!?

終電!?余計なお世話だ!

何なんだ、あの野郎・・・。

もう一度会ったらただじゃおかねえ!!

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